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「マナーを守り、自分を厳しく律する
      私達の社会もゴルフと同じですよね」

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創業者

​故木内善三郎

―ゴルフとの出合い―

時は1941年にさかのぼります。
現在の徳島大学を卒業後、その年に親兄弟が止めるのも聞かずに中国・大連へ渡って、満州昭和製鋼所に技術者として入社。大連の郊外には、当時、満州鉄道の経営する星ヶ浦カントリークラブがあり、優雅にゴルフをする内外の人の姿が頻繁に見られました。
当時から私は、時間があるときは、乗馬やグライダーなど遊びごとなら何でもチャレンジしていました。
南満州鉄道にゴルフプレーのお願いをして何度も頼み込んだ末に「バッグを担いでみろ」と言われたのが最初でした。
その後、キャディとしてコースに入り、合間にショットをさせてもらった。センスを見込まれキャディの孫さんがレッスンまでしてくれ、月1回のペースでラウンドも楽しんでいた。
しかし大東亜戦争の勃発によって現地で徴兵され戦地で4年、終戦後もシベリアで8年間抑留されてしまいゴルフどころじゃなかった(笑)。

帰国後の1957年。
カナダカップが日本の霧ヶ関カントリークラブで開催された。優勝は中村寅吉、小野光一コンビ。私は小野プロにどこか懐かしい面影を感じていた。
それもそのはず、なんとかつてのキャディ孫士釣だった。日本人に帰化していた。
すぐさま再会を果たしカナダカップの映像8ミリをプレゼントしてもらった。
それから私は多くの人々にゴルフの素晴らしさを伝えていった。

ゴルフの魅力は老若男女、対等に楽しめるそれに、自分の良心に従ってペナルティーを課すこんなところが気に入っています。
マナーの悪いゴルファーを注意する事もあったが説明をすると素直に受け入れてくれる。
社会でも同じで子弟教育や家庭教育をおろそかにしたことに原因があるのではないでしょうか。

―県下にゴルフ場、練習場「0」 それでもゴルフ専門店「南海ゴルフ」をオープン―


昭和33年、私はスーパーマーケット連合会で共同仕入れを担当していました。10人余りのゴルファーのすすめもあり、仲間の便宜にもなればと、自己満足も手伝って、ゴルフ用具、小物類、数セットを仕入れました。事務所の隣の貸店舗で陳列しましたが、ボールやティ、パター2本を買ってくれたほかはサッパリでした。
昭和34年5月専門店「南海ゴルフ」を開きました。国道沿い目抜きの家を借りて改装、オープンしました。ゴルフ場、練習場はおろか、ゴルファー皆無(10数人)での店開きは、当時、町の笑いものでした。
開店1ヶ月の売上げは5500円。ひやかして帰る客に「今に面白くて止められぬ日が来ますよ」と口では強がりを言いましたが、夜も寝れない日々が続きました。

初注文が舞い込んだ時は女店員を助手席に、配達先へ急ぐ中古のダットサンの中で拭いても拭いても涙が止まらなかった自分を今でも忘れることが出来ません。

―3年間の早朝レッスンで約1100人のゴルファー育成― 

昭和35年春、待望の徳島ゴルフ倶楽部が正式に開場しました。
夏は午前4時半、冬は6時半より毎日2名の客(企業のトップ)を説得してレッスンを始めました。練習を約1時間半行い、ルール、エチケットを説明しながらゆっくりと時間をかけてハーフラウンド。クラブ入会先の勧誘と用具の購入をすすめるという日課を行う事にしました。
このレッスンは参加者の方々から口コミで評判となり、ついに3年間のロングランとなり、約1100人のゴルファーが誕生し、そのうち500余名の方々がクラブ会員となったのです。こうしてゴルフ用具一式が必ず毎日1セット以上売れる様になり、はじめて経営は軌道に乗りました。
県内2つ目の鳴門ゴルフ場造りからは、会員権の募集、キャディ、従業員教育まで受け持ち、続いて阿波カントリー倶楽部、阿南カントリークラブ開設にも自ら、キャディ教育を受け持ち、会社を挙げて会員募集を手伝いました。

また一方では、練習場造りに協力を惜しまず、立地、将来性、設備、経営及びマーケットリサーチなど施主の相談には昼夜を問わず馳せつけ、今日まで20指に余る練習場を開いて頂きました。そして練習場用品の受注と売店を頂きました。開場後は出入りするビギナーの弊社への紹介と言う形で報われています。

―「自ら需要を作り出す」姿勢を貫く―

多くのゴルフショップは、すでに存在するゴルファー及び将来増加する潜在需要に対応して店を開かれますが、私は終始自ら需要を創り出して、これに応えるという永い道程を根気よく歩んで来た様に思います。

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